民主主義が常に正しいという幻想

ある極端な一定の空気が世の中に蔓延している時、特に理性を働かせて物事を見極める必要があると思う。
我が国は戦前に朝日新聞その他のメディアによって開戦へと世論が大きく扇動されたという苦い経験を持っている。そのことへの反省はしっかりなされているのだろうか。

日本人は空気を重んずる。これは本来日本人が個人のことだけでなく周りの共同体や社会のことも鑑みて生きるために獲得した社会的な「長所」である。
「和を以て貴しとなす」
聖徳太子の十七条憲法にある、日本人が特に大切に思っている人間関係における美徳である。空気を重んずる気質はこの価値観が下地になっていることは疑いない。
しかし何事も諸刃の剣で、それが極端に出たり歪な形に変わるとたちまち「短所」となる。

僕は戦前の「鬼畜米英」というスローガンと「新型コロナウイルスの感染拡大」という言葉にはどこか似たようなベクトルを感じて仕方がない。
シュプレッヒコールのように同じ言葉が繰り返されている時は、そこに何らかの「裏の意図」が潜んでいるのではと、まずは疑ってかかるべきだと思っている。

「民主主義」の欠点は衆愚政治に陥る危険性である。多数決が基本である以上、それが間違っていたとしても多くの意見が世論となってしまう可能性は容易に想像できるだろう。民主主義はメディアその他によって実は簡単に世論を一方向に向かわせることができるのだ。

時には「空気」を取り払った状態で物事をフラットな視点で考えることが必要だと思う。「平和ボケ」していると言われる日本人は特に、自分の日常からは考えられないようなことが世の中で起こっている可能性がある、と常に危機感を持たなければならないだろう。

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