あくまで身体的な感覚の話である。
「快感」と「不快感」。人間や生き物は前者を求め後者を避けようとする。これは一体なぜそうなのだろうか。
何を言っているのかまだ不思議に思っていらっしゃる方も多いと思うが、そもそもこの二つはなぜそうなっているのか。
人間の五感は生物としての人間が外界からの情報を得る(現在の科学的には)唯一の手段である。この「外界」というのには例えば頭痛であるとか、厳密に言えばどこにあるのかわからない「自己」が外(自己以外)からの情報として捉えるものも当然含まれる。五感というセンサーを通じて我々は自身の身体をも含めた「世界」が今どうなっているのか、おそらくは膨大な情報の「ごく一部」をキャッチしているのだ。
実際はもっと細かい感覚があるのだが、大きく分けて五感と呼ぶ。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、このうち視覚と聴覚には厳密な「快感」と「不快感」は日常生活においては実はほぼ存在しない。見て気分が良くなるまたは悪くなるという場合、その快感不快感は精神が作り出していることは明らかだ。聞いて気分が悪くなる音というのは例えば黒板を爪で擦る音とか、おそらくは音そのものよりもそれによって想起される何らかの記憶が引き起こしていると思われる。心地よい音や音楽といったケースでも、それが精神状態によって大きく左右されることは誰しも経験していることだろう。
あまりにも眩しい光や耳をふさぐような大きな音といったケースはその感覚器官の「オーバーロード」によって生じるものだ。
味覚と嗅覚にも実は似たようなことが当てはまる。「いい匂い」「悪臭」「美味しい」「不味い」といった感覚にはかなり個人差があり、その個人差は経験や記憶によって主に形作られている。中には遺伝の要素もあるかもしれない。
「いい匂い」の代表といえば花や果実の匂い。「悪臭」の代表といえば腐敗臭やウンコの臭いであろう。
しかしそれとてかなりの個人差があり、くさやの干物が大好きな人だっているし、九州人以外の人は豚骨ラーメン店の匂いを悪臭と感じることが多い(多くの九州人にとってあの匂いはたまらなく食欲をそそるものだ)。
腐敗臭やウンコの臭いを悪臭と感じるのは、生物がそれを危険だと判断しているからに他ならない。「お母さんの匂い」は何らかの匂いを自分の生命を守ってくれるお母さんの記憶と結びつけているのだ。
触覚には一見「快感」と「不快感」が明確に存在するように思える。
・快感:性感、痒い場所を掻く時、優しく撫でられた時、満腹、休息、睡眠
・不快感:痛み、痒み、熱さ、冷たさ、空腹、疲労、不眠
性感をなぜ快感と感じるかは、生物が子孫を残すためにあらかじめプログラムされているものだからだ。性欲が満たされない状態は種の維持にとって危機であり、厳密に言うと「不快感」である。ムラムラは不快感なのだ。そしてそれが解消されるプロセスを快感に感じている。
痒い場所を掻いた時の快感も、「痒み」の不快感が解消されることによって生じている。つまりこれは本当は存在しない。
優しくなでられた時というのは共感できるが、そもそも生物の集団生活と深く関わっているように思える。よってこれも絶対的な快感ではないはずだ。
痛み、熱さ、冷たさ、の3つは生物がその命を維持するための危険信号に他ならなく、あらかじめそうプログラムされている。よってこれらにも絶対性はなさそうだ。
現に「温かい」「涼しい」といった程よい感覚は快感である。しかしそれらも厳密には寒さや暑さといった不快感が解消するプロセスのことである。
肩もみやマッサージが気持ちいいのは、一つには程よい痛みが生じるからだ。痛すぎると人は悲鳴をあげる。程よい痛みもコリによって生じる不快感の解消と結びついていることは実感できるだろう。
空腹と満腹、疲労と休息などにももちろん生命維持のための危険信号による不快感とその解消、という関係性がうかがえる。
こうやってどんどんバラバラにしていくと、まるで玉ねぎやらっきょの皮をむいていくみたいに快感や不快感の正体がなんだかよくわからなくなる。
確かに言えそうなことは、生命維持のための危険信号が不快感、その解消が快感なのだろう。
そしてそれはかなり相対的で、環境や精神状態によって大きく左右される。
人間という生き物は五感以外の精神活動の占める割合が高いので、身体的な「快感」と「不快感」のみが行動原理になっているわけでは無論ないが、身体的な感覚ですら「不快」を感じているのは実は多くの場合自分の心がそうさせているだけであり、心の持ちようによってそれを「快感」に変える余地も多分にありそうだ。
例えば「切ない」という感覚は快感と不快感のどちらにも転ぶように。
一度玉ねぎの皮を剥いてみることをお勧めする。