ソーシャル・ディスタンス

人と人が通常の会話のコミュニケーションを取れる距離は、せいぜい2mである。
それ以上距離が離れた状態でコミュニケーションを始めた場合、人はもっと近づいてコミュニケートしようとする。
つまり「ソーシャル・ディスタンス」と現在呼ばれている距離は、通常の自然なコミュニケーションが取れない状態を表すとも言えるのだ。

この2m以内という距離は、お互いの声がよく聞こえる距離であるのはもちろんだが、お互いの「気」を明確に感じられる距離、でもあるのだ。敏感な人なら「ああ、なるほど」と頷くかもしれない。

人と人はその関係性やその時の状態によって、それに見合う距離を自然に、ほぼ無意識にとっている。仲の良い夫婦や家族であればそれだけ距離も近く、仲の悪い夫婦や家族であればあまり近づこうとしない。お互いの「気」を近くに感じたかったり、感じたくなかったりするのが理由の一つだ。

初対面の人同士が握手をする場合、手を握り合うこと自体が重要なのではなく、手を握れる距離まで近づくことに本当は意味があるのだ。
これによってお互いの「気」の交換が行われる。まずは手の内を見せ合ってからコミュニケートを始めているのだ。
日本人は集団生活の重要性の認識が古来から高かったため、この「気」のコントロールにも元々長けていた。場の空気に敏感な気質はここからも来ている。なので握手などの習慣が必要なかったとも言える。握手の習慣は明治以降に西洋からの輸入によって根付いたものだ。

昨今、教育のデジタル化の推進が叫ばれている。僕はこれには少し警鐘を鳴らしたい。僕の持論だが教育はアナログに限るのだ。
特に学校教育、初等教育の場においては先生と生徒が顔を突き合わせ、お互いの心情をより理解する距離であることに本当の意味がある。もちろん生徒同士の生のコミュニケーションが重要であることには異論があろうはずがない。

教育現場へのデジタル化の導入は時限措置的に行うべきである。全てこれで済ませることができる、などと安易に運用することは大変残念な結果を生むことは明白である。

生の演奏などにより感動したりするのは決して音質がいいからではない。そこにより近いコミュニケーション空間が生じるからだ。演奏者の息吹を感じ、演奏者の伝えたいことや人間性なども明確に伝わることが一番大きな理由だ。

ソーシャル・ディスタンスなどの自粛が解かれた後は、より生のコミュニケーションの重要性を意識して生活するべきだと僕は思う。

※ちなみに「気」の熟練者は距離にほぼ関係なく「気」を飛ばすことができる。遠隔で「気」による治療なども行うことが可能だ。

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