こないだの無観客ライブの時に体罰についての話もしたんだけど、もう少し自分の考えを述べておこう。
体罰の行き過ぎが数多くの悲劇を教育現場にもたらしたことは周知の事実であろう。
体罰廃止の背景にはそれらの被害の発覚や被害者の声なき声があるのは言うまでもない。
しかし体罰が教育現場において全く有効に働かなかったかどうかと問われると、それを疑いもなく受け続けて育った私の世代においては、自身の経験に照らせば「決してそんなことはない」と感じる人が大多数ではないだろうか。
特に理屈がまだよくわからないような年端のいかない子供には、「痛みへの恐怖」を覚えさせることによって、その行動を抑制する効果があることは否定できない。
「躾」を罰則なくして成り立たせることは、現代の人類の精神レベルではまだ難しいことだと私は思う。
「親父にもぶたれたことがないのに!」アムロのあの台詞は、リアルタイム世代の私にとっては、甘やかして育てられた人間の言い草にしか聞こえない。
安易な体罰が行われないに越したことがないのは明らかである。暴力はエスカレートを呼ぶからだ。体罰の「適切性」が失われていくのである。
世界的にも体罰は禁止の方向にあるが、「適切な体罰」に取って代わる罰則その他が、それこそ適切に運用されているかどうかはまことに疑問の余地が残る。
過渡的に必要なのは、罰則の適切性が保たれているかをジャッジする第三者の存在であろう。
我が子可愛さに無茶苦茶な論理を展開するいわゆる「モンスターペアレンツ」の台頭は、教育者の理念や哲学が明確に示されなくなったことの弊害だと思う。
教育者はもっと社会的な責任感を持たなければならない。
「どうしてうちの子が白雪姫じゃないのか!」などとクレームをつける保護者に、分担されたひとつひとつの役割の重要性や、それが社会構造そのものの模範であることを説ける教育者の不在が、劇の主役のインフレという珍妙な事態を招いたのだ。
体罰は長らく日本(いや世界においても)の躾においては伝統であった。過渡的な手段なしにそれをいきなり「なきもの」にすることは数多くの弊害を呼ぶであろう。今こそ改めて考え直したい問題である。
子供を「上手に」叱ることが健全な社会をもたらす結果につながるのだと思う。